雪が残らなかった日の妄想

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日曜日の昼すぎ、しんしんと雪が降り続くのでついつい保育園に来てしまった。誰もいない園庭に、静かに雪が降り積もっていて見慣れた景色が全く違った場所に見えました。遊具も、ベンチも、テーブルも、いつもの「役割」を少しだけ忘れて、ただそこに、白く、やわらかく、存在している姿は僕に二つの感情を呼び起こしました。
一つは、運営の頭・・・凍結は大丈夫か? 朝一番で確認することは? 職員にどのように連絡をするかなどなど。これに名前を津kぇるなら園を守るために必要な思考。
そしてもう一つは、保育者としての頭です。——もし、この雪が明日も残っていたら・・・。

きっと子どもたちは、誰も踏んでいない場所を探して歩いたり、理由もなく遠回りしたり、
手袋を外して、「つめたい!」と笑いながら、もう一度触ったり・・・さらに雪を集める子。運ぶ子。壊す子。ただ見ている子。そこには「雪遊び」という活動ではなく、その日だけの環境と、その子だけの関係が生まれるはずでした。

雪の日は、イベントではなく、環境が変化した日です。子ども主体の保育は、何をさせるかが大切ではなく、何と出会えるかが重要なのだと思う。大人はついつい「雪遊びをする」のを考えてしまうが、どちらかというと「雪に出会う」時間を過ごすみたいな感じ。

雪は、きっと子どもに多くのことを教えてくれたにちがいない。滑る感覚。沈む感覚。冷たさ。重さなどなど。身体だって環境を通して世界を学ぶのだから、転ばない体も、危険を察知する感覚も、こういう日の中で育っていくのだと思う。

そして雪は、子どもの心にも問いを投げてくれる・・・君はどこまでなら大丈夫なの?
もうやめる?もう一回やる?限界を知るということは、怖さを知ることではなく、自分を知ることにもつながるのだ。

しかし、僕の妄想とは別に午後、雪はやんでしまい、思ったより早く雪は溶けていきました。豪快な雪遊びには、なりませんでした。でも、みんなの頭の中にも、まだ誰も歩いていない雪の園庭が残っているのではないだろうか?その真っ白い世界に誰よりも先に足跡をつけ、雪を食べてみたり、寝転がってみたいみたいなことを考えているのではないか?保育は、起きたことだけでできているわけではありません。起きなかった可能性とも、一緒に考えることだって楽しい。もし、あのまま降り続いていたら。もし、朝まで残っていたら。

そうやって想像した時間は、確実に、今日の保育を少しだけ変えてくれるのではないだろうか?僕は60歳を過ぎても妄想族なのである。

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