保育士の専門性についてコメントが多いので調子に乗って第三弾。
今日は保育の場面でよく使われる「子どもを見る」という表現について考察してみたいと思います。
ここでいう「見る」は、「監視する」とか、「できた・できないを判断する」とか、「発達段階に当てはめたりする」ための“評価する眼”のことを指すわけではない。
実際現場では「トラブルが起こらないように“みて”ください」といった文脈で使われているケースが多いのだと推測されるのだが、ここは保育士の専門性として考えたいので子どもの姿を「出来事」として受け止める眼差しのことを「こどもを見る」として話を進めたい。
たとえば、何気ない子どものつぶやき。
遊びの途中でふと立ち止まる姿。
同じことを何度も繰り返す姿や、急にやめてしまう行動などなど・・・保育士が意図した計画とは別次元で起こっている「何気ない生活の一場面」ではありますが、そこには必ず、その子なりの理由や意味、揺れや迷いがあります。
でも僕らは忙しい日常の中で、大きなトラブルになっていないことに関してついそれらを「よくあること」「気にすることもない小さいこと」「今、やるべきでもないこと」と流してしまいがちです。
また、保育の現場では、予定通りにいかない出来事が次々と起こります。
ケンカしたり、泣き、反抗したり、反応が薄かったり、、、予定外の行動ばかり。
それらは保育士の“ノイズ”として心の中に立ち上がり、僕らはこの状況を困った状況として認識しまいます。そして、そのノイズをどう扱うかが腕の見せ所なのだが、実際僕らはトラブルの解決課題として認識して対応を開始してしまうことが多い。そして、そのことによって保育の質は大きく変わってしまう。

このノイズや違和感、引っかかりは、保育者への問いかけとしてとらえることはできないだろうか。
「なぜ今、この行動が起きたのだろう」
「この子は、何を試しているのだろう」
「この場面で、私は何に戸惑っているのだろう」
こんな感じで問い直すことで、出来事は単なるトラブルではなく、意味を持ったものとして立ち上がってくるのではないかという視点です。
さらに加えるのならば、この違和感や引っかかりにすぐに答え(正解)を出そうとしないことも大切な技能だと思うのです。
年末のYouTubeLIVEでも言っていた「ネガティブケイパビリティ」・・・保育者がわからなさを抱えたまま立ち止まれることがめちゃくちゃ大事だと思っています。「よくわからないけれど、何かが起きている」その感覚を急いで整理せず、子どもと一緒にしばらく持ち続ける。そこから、関わり方や環境のヒントが見えてくるのだ。
優秀な保育士さんが「待つ」大切さを口にすることがあるが、きっとこの辺りを言っているのだと思う。(問題を先延ばしにするのとは違うことについてはどこかで解説します)

こういった「子どもを見る眼」は、知識だけで育つものではない。日々の生活の中で、出来事に心を動かされ、迷い、考え続ける中で、ちょっとずつ、ちょっとずつ耕されて身につくものなのだろう。
子どもを瞬時に理解したとわかった気持ちになる眼ではなく、理解しきれなさを抱えながら、それでも一緒に生活していこうとする眼差し(態度)です。
その眼差しがあるからこそ、保育は単なる支援や指導といった上からのアプローチだけでなく、子どもと一緒に物語を紡いでいく存在になれるのではないかなぁと思うのです。

