舞台『終わった人』を観てきました。かつて大手銀行の出世街道を走りながら、最後は子会社の専務として定年を迎えた中井貴一さんの「定年退職後の人生を」を描いた内館牧子さんのベストセラー小説を原作とした笑いと切なさが同居する作品だった。
芝居の最後の方に中井貴一さん演じる定年退職した男が、故郷・岩手の川でボロボロになりながら遡上するサケを見つめるシーンがあります。傷つき、剥がれ、それでも卵を産むために必死に川を登るサケの姿に、彼は自分を重ねて何かを決意するシーン。その姿を見て、「メッキは剥がれても、鱗(うろろ)は残っている」という内容で今日はブログを書こうと思った(笑)

僕らは社会に出ると、いつの間にか立派な「メッキ」を身にまといます。 「園長」という肩書き、「ベテラン」という評価、仕事の中での栄光。それは自分を守る鎧でもありますが、時として「それがない自分には価値がない」と思い込ませる呪縛にもなってしまう。舞台の中井貴一さんは、定年という節目でそのピカピカのメッキを剥ぎ取られ、 残ったのは、所在なさと、格好悪い自分だけ。 けれど、サケが激流に身を削られながらも進むのは、メッキを輝かせるためではありません。命の底にある「本能」、つまり剥き出しの「鱗」があるからなのだ。
自分の仕事だってそうであって欲しい。 役職が変わろうが、定年を迎えようが、僕らが積み上げてきた「誰かのために動いた汗」や「守り抜いた信念」は、皮膚に深く刻まれた鱗となって残っていて、それは剥がれることのない、自分だけの証だと思う。サケは卵を産んで死んでいきますが、その遡上は「終わり」ではなく、次に続く命への最高に格好いいバトンパスと考えれば、泥臭く生きるのも悪くない。
僕も60を超え、世間から「終わった人」に見える瞬間があるかもしれないが、僕はまだ「終わらないオトコ」としてもう少し頑張ろうと思う。メッキが剥げかけることもあるけれど、この剥き出しの自分で、こどもや女性福祉に関わっていこうと思いました。

