保育や福祉の世界にいると、不思議なことに時々「思想」に出会うことがある。それは本の中からというより、人との出会いの中で、ふと目の前に現れるようなもので、先日、大久野保育園の髙野園長と前橋の飲み屋で食事をしていた際にふと出てきたのが「華厳経」という言葉でした。
正直に言えば、それまで華厳経を専門的に学んだことなどなかったが、話を聞きながら、なぜか胸の奥にすっと入ってくるものがあった。華厳思想には「インドラの網」という有名なたとえがあるらしいが、僕は宮沢賢治が考えた言葉だと思っていたくらい。宇宙には巨大な網が張り巡らされていて、その網の結び目には宝珠がぶら下がっている。その宝珠はそれぞれが光を放ち、同時に他のすべての宝珠を映し合っている。
つまり、一つの存在の中にすべてが映り込み、すべての存在が一つに関わっているという世界観です。最初はピンとこなかったのだが、保育に紐づけて考えてみるとジワジワとつながりが見えてきた。

一人の子どもの笑い声でクラスの空気が変わるとか、誰かが遊びを思いつくと、周りの子どもたちがそこに集まるとか、保育者のちょっとした言葉で、その日の雰囲気が優しくなることもあれば、逆に緊張が走ることもある。当たり前の風景だ。要するに保育の現場では、誰か一人だけが独立して存在していることはない。子どもも、大人も、空間も、出来事も、すべてが互いに影響し合いながら、その場をつくっている。最近よく使われる「共主体」という言葉も、まさにそのことを表しているように思えてくる。
主体というと、つい「その人、個人の力」のように考えてしまいがちだが、保育の現場を見ていると、主体は決して一人で生まれるものではない。友だちがいるからやってみたくなる。保育者が見守っているから安心して挑戦できる。環境があるから遊びが広がる。そうやって関係の中で、主体は少しずつ立ち上がっていく。
華厳思想の言葉を借りるなら、一人の子どもはクラス全体を映し、クラス全体は一人の子どもの中に映っている。そんなふうに言えるのかもしれない。また、華厳思想を高く評価した空海が、その関係を「身体で生きる」ことを重視した点が面白い。頭で理解するだけではなく、声を出し、手を動かし、身体を通して世界と響き合うってことだ。考えてみれば、保育という営みはまさにそれ!
抱っこすること。目を合わせること。一緒に笑うこと。遊びの中で身体を動かすこと。保育とは、関係を身体で紡いでいく営みなのかもしれません。華厳経という壮大な仏教思想と、日々の保育の営みは、一見すると遠い世界の話のようにも思えるけれど、よくよく考えてみると、保育室の中では毎日、小さな「インドラの網」が揺れているともいえる。子どもたちは一人で育つのではなく、関係の網の中で育っていく。そしてその網の中には、僕ら保育者も確かに含まれている。仏教をバックボーンに持っている園長先生たちはこんなことを考えながら保育を見ているのだろうか? でも、保育とは、関係の網を丁寧に編み続ける仕事と感じられたのは収穫。保育以外の思想で保育を語るのも結構面白かったりする。
