映画『ノルマル17歳。わたしたちはADHD』

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見た目と行動が派手なギャル女子高生、朱里。
進学校に通うまじめな女子高生、絃。
そんな正反対の2人に共通するADHDであること。
『ノルマル17歳。わたしたちはADHD』を観てきました。
不注意や落ち着きのなさから、周りからは「空気の読めない人」「ちょっと変わった人」というレッテルを張られてしまい、生きづらさを感じている主人公の二人。
彼女たちの一番身近な存在である家族も娘がADHDであることは頭では理解しているものの、彼女たちの行動や言動に「普通でない」を感じてしまう。
この映画は発達障害を描いていますが、本質的なテーマは『普通』の呪縛を抱えた僕らに問題提起しているような作品だ。
保育園という空間で働くなかで多様な子どもたちと過ごしていると絶えず「なんでこんな行動をするのだ?」と感情が動く場面に出会う。
その湧き上がる「なぜ?」は自分の認識を基準とした「普通という見方」で子どもたちを見てしまうからだ。そして、その感情のまま発言したり、行動したりすれば相手に共感も何もなしにこちら側の独りよがりな思考を押し付けることとなり相手を傷つけてしまう。
僕らは自分たちの知っている世界の外にあるものを「普通ではない」と感じ、それを排除したり、同質性を要求してしまったりするダメなところを持った生き物なのだ。
ここ数年、リフレクションを勉強したり、ダイバーシティ、インクルージョン、エクイティなどBELONGING(帰属意識)を高める研修を進めているのも、この映画のテーマである「普通」を乗り越えて共感したいからなのだ。
しかし、自分の中に根付いていしまっている「普通」の規範意識は無意識に態度や言動に現れてしまう。
普通という呪縛を乗り越えるのは簡単なことではないことを再確認した映画だった。