映画「ロストケア」が問いかけるもの

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松山ケンイチ・長澤まさみ主演の『ロストケア』を観てきました。

訪問介護サービスに献身的に従事する松山ケンイチが高齢者42人を殺害したという内容の映画だ。

 

正直なところ映画を観るべきか、観ないほうが良いのか迷っていた。

なぜなら、障害者施設に勤務し、介護サービスに従事していた植松聖死刑囚が障害者45人を殺傷した「やまゆり園事件」と重なるところが多く、さらに、この映画の主人公も確信犯として殺人を行っている内容だとすると冷静に映画を観ていられるだろうか?と思っていたからだ。

 

やまゆり事件と共通項が多いと思っていたが、映画が始まってすぐに、これは別の次元で僕らに問われているものがあることはすぐに分かった。

 

映画で松山ケンイチが演じる犯人は、純粋に介護に打ち込み、そして、周囲から一目も二目も置かれています。

つまり介護のプロとして仕事をしている。

そして、障害者に対し優勢思想をもとに勝手に殺していった植松死刑囚の差別の思考とはあきらかに違って、映画『ロストケア』は安楽死や尊厳死に関わる話なのだ。

 

 

しかし、そうだからと言って人を殺めてよいわけがない。

福祉のプロである彼が、なぜ、「救い」のためにロストケアという選択をしてしまったのか?

そして、観ている僕らはこの殺人犯に共感の感情が生まれそうになるのか・・・

逆に長澤まさみが演じる検事の正しい言葉が、正しく僕らに響いてこないのはなぜなのか?

 

保育や家庭福祉の分野でも起こる「虐待」もそうだが、ただ間違っているという言葉だけでは片づけられない。

 

そこには家族関係、経済状況、当事者の生い立ち、そして、今の社会制度などなど、僕らは一人ひとり異なった状況を抱えて生きている。

その状況の中で正常な判断ができなくなってしまう可能性に僕らは共感してしまうのだ。

 

外部とのつながりがなくなり、SOSが届かなくなったら・・・それが想像できてしまう時代だから、この映画が成り立つのだと思う。

子育てする親も 障碍を持った人や高齢者と暮らす家族も日常生活から一つでも歯車が狂えば、子育てや介護という行為が苦しくなり

その対象者が「ただ居てくれる」という当たり前に疑いを持ってしまうのだ。

 

支えが必要だ、あらゆる孤立をなくしていかねばならない。

そんなことを考えさせられる映画でした。