子どもは場所により別の存在になる

ブログ

当たり前のようだが、なかなか言葉にするのが難しい保育の話。一人の子どもなのに保育室の顔と、園庭での顔が違うということ。

室内では、静かに玩具棚へ向かい、好きなものを選び、椅子に座る。声も少し小さくなり、どこか「文化的」な人間の顔をしている。ところが、外に出るとどうだろう。扉が開いた瞬間、まるで別の生き物のように走り出す。坂を見つければ駆け上がり、水たまりを見つければ躊躇なく踏み込み、砂をつかみ、投げ、叫ぶ。そこにはもう、さっきの静かな子はいない。『子どもは場所によって別の存在になる』のだろうか?

室内は、人間がつくった空間だ。温度は一定で、危険は取り除かれ、物は整然と並び、何がどこにあるか分かる。予測可能で、管理された世界。そこでは、子どもは「意味をつくる存在」になる。積み木は車になり、人形は赤ちゃんになり、皿はケーキになる。物はそのままではなく、別のものとして使われる。つまり、頭の中で世界を組み替えている。室内での遊びは、世界を再構成する遊びだ。

一方、園庭はどうか。風が吹き、地面は凸凹し、虫が現れ、土は濡れ、空は変わる。そこは予測できない半自然の空間である。誰かが完全にコントロールしているわけではない。そこでは、物は物のままで意味を持つ。水は水として、土は土として、坂は坂として、子どもに迫ってくる。園庭の遊びは、世界そのものと直接関わる遊びだ。

別の視点で見てみると身体の使い方もまったく違う。室内では手指が中心になり、座り、細かい操作を行う。内側へ向かう身体。園庭では、走り、跳び、登り、落ち、投げる。全身が空間に向かって開かれる。外側へ向かう身体。また、リスクの質も違う。
室内では「失敗したらどう思われるか」という社会的リスクが大きい。園庭では「転ぶかもしれない」「濡れるかもしれない」という物理的リスクが前面に出る。だから園庭では、評価ではなく自己調整が働く。どこまでなら登れるか、どの速さなら転ばないか、どの高さが怖いか。子どもは身体を使って自分の限界を測る。これは室内では育ちにくい力だ。さらに時間の流れも違う。室内は活動が区切られ、片付けがあり、次の予定があるが、園庭は終わりが曖昧で、遊びが連続する。自然のリズムに近い。

こうして考えると、園庭と室内は単なる場所の違いではない。それぞれが、まったく別の人間のあり方を引き出す装置なのだ。室内の子どもは、文化的存在である。言葉を使い、象徴を操り、社会のルールの中で意味をつくる。一方、園庭の子どもは、生物的存在である。重力に従い、風を感じ、地面を蹴り、身体そのもので世界と交わる。「体力づくりのために外遊びを」という言い方があるが、どうも違和感がある。園庭は体育館ではない。むしろ園庭は、子どもが生き物に戻る場所であると言った方がピタッとハマる気がする。

どちらが良いかではない。室内で世界を再構成し、園庭で世界に出会う。この往復の中で、子どもは人間になっていく。もし室内だけなら、身体は未熟になる。もし園庭だけなら、象徴の世界が育ちにくい。両方が機能して初めて、子どもの世界は立体になる。『室内は、意味をつくる場所。園庭は、意味に出会う場所。』その両方を往復しながら、子どもは今日も、自分という存在を少しずつ編み上げていく。そして僕ら大人の役割は、その遊びを急かさず、邪魔せず、ただ見守ることなのだと最近強く思う。

タイトルとURLをコピーしました