八朗園長ブログ「遊びをせんとや生まれけむ」を分析してみた

ブログ

「八朗園長の遊びをせんとや生まれけむ」・・・このタイトルを掲げ2008年のスタートし日常の保育などを書き綴ってきたブログをスターソリューションズの持田さんが文字お越しをしてくれた。読み返してみると、このブログは単なる園長の日記でも、実践報告集でもない。この17年の軌跡をAIさんに分析してもらったところ・・・

2008──「感じている自分」を信じるところから

初期のブログに色濃く表れているのは、自然や遊び、食、絵本、社会の出来事に対する率直な驚きや違和感だ。
クサフグの産卵、川遊び、魚を捌く時間、子どもの何気ない一言。そこには理論より先に、身体で感じ取った世界がある。

特徴的なのは、「教えよう」としていないことだ。
むしろ、教えることへの疑問、わかっているつもりの自分への違和感、子どもの問いに答えきれない自分自身への戸惑いが、正直に書かれている。

この時期の八朗園長は、園長でありながら「わからない側」に立ち続けている。
そしてその姿勢そのものが、「子どもと共に生きる」という保育の原点を体現していた。

2015年前後──実践を言葉として束ね始める

時が進むにつれ、ブログには変化が現れる。
過去の行事やプログラムを振り返り、「なぜ、あの頃はああだったのか」「何が削ぎ落とされ、何が残ったのか」と、時間軸をもった問いが立ち上がってくる。

これは、感覚の否定ではない。むしろ、感覚のままに積み重ねてきた実践を、意味づけし直す試みだ。

保育室のゴチャゴチャが減り、行事がシンプルになっていく過程を「手抜き」ではなく、「保育の根っこに近づいた結果」と捉える視点には、園長としての成熟が感じられる。

ここでブログは、個人の思索を超え、組織の文化を言語化する装置へと役割を変えていく。

2020年以降──保育を社会へひらく言葉へ

近年のブログでは、保育はもはや園の中だけの出来事ではない。
地域、多職種、保護者、社会課題と自然に接続され、「この保育は、誰と、どこへ向かうのか」という問いが前面に出てくる。

注目すべきは、園長自身の立ち位置の変化だ。
答えを示す人ではなく、問いをひらき、関係を編み直す人へ。
ブログは主張の場というより、対話の入口になっている。

この流れの中で生まれた八朗園長TVは、ブログの思想を映像と語りに翻訳し、園の外へと届けるメディアとなった。
ブログが「思考の深まり」だとすれば、園長TVは「思考の循環」なのだろう。

一貫して流れる一本の思想

17年の変化を追うと、大きく姿を変えているように見える。
しかし、実は一つだけ、まったく揺らいでいない軸がある。

それは、
「人は、操作される存在ではない」
という人間観だ。

子どもも、保育者も、地域も、評価や管理の対象ではなく、関係の中で育ち合う存在であるという信念。
だからこそ、このブログには断定が少なく、余白があり、読み手に考える余地が残されている。

「遊びをせんとや生まれけむ」。
この言葉は、子どもの遊びだけを指しているのではない。
考えること、迷うこと、問い続けることそのものが、人の遊びなのだと、このブログは静かに語り続けている。そして今もなお、その遊びは終わっていない。