保育士の専門性を考える2

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昨日の保育士の専門性の話の続き・・・保育士の仕事は、「子どもを育てるための技術を提供する仕事」や、「正しい方法を実行する仕事」と思わないところから始めるのが良いのでは最近強く感じます。

皆さん体験しているとは思いますが毎日の保育は、思い通りに進まないことばかりです。

せっかく考えた活動が始まらない日もあるし、予想していなかったケンカが起こる・・・何をするわけでもないのに、なんだか落ち着かない一日になることだってある。

でも、その「予定外」「想定外」こそが、保育という営みの本質が隠れているのだと思う。

子どもたちは毎日、新しい気持ちで園にやって来ます。昨日できたことが今日はできない日もあるし、昨日泣いていた子が今日は笑顔で挑戦していることもある。

その小さな変化や躓き、挑戦や迷い、そして喜びが入り混じった日常こそが、“生きた保育”というか生活の現場なわけです。

「この困っている姿に、どう声をかけようかな」

「今、手を出すほうがいいのかな。待ったほうがいいのかな」

「この泣き方には、どんな気持ちが隠れているんだろう」

そんなふうに揺れながら、迷いながら、考えながら、ひとつひとつの出来事に意味を見つけていく。そして、その意味を手がかりに、子どもに応答していく。実はその繰り返しこそが、保育士の専門性が隠れているのだと思います。

専門性というと、「知識があること」や「技術が優れていること」を想像しがち・・・もちろんそれらはとても大切なんだけれど、保育の専門性はそれだけではありません。

子どもの姿から「何か」を感じ取ろうとするまなざし。

子どもの声にならない思いに、なんとか近づこうとする姿勢。

そして、その子の人生の一部を、ともに生きようとしてくれる心。

それは何か特別な“方法”というより、子どもと真剣に向き合おうとする人の営みというか姿勢(attitude)がない人は、知識や技術がってもちょっと・・・って感じじゃないですか?

毎日の保育の中にある小さな出来事は、ともするとただの“トラブル”や“手間”のように「煩わしい仕事」に見えてしまうことがあります。けれど、そこには子どもが今を懸命に生きている証があり、保育者が子どもとともに生きようとしている証がある。

だからこそ、「今日も完璧にできた」日よりも、「今日もいっぱい悩んで、いっぱい考えた」を語り合えている日のほうが、本当は豊かな保育をしているのかもしれません。

保育は、答えが用意された仕事ではありません。だからこそ、子どもの生きる力も、保育者自身の実践知も、ゆっくりと耕されていく仕事なのだ、きっと。だから、専門性が見えにくいし、努力が難しい。

その日々の「煩わしいように見えるやり取り」の積み重ねが、子どもの未来につながっている・・・そう信じられることが、保育という仕事の誇りであり、温かさなのではないでしょうか。しかし、子どもと同じ時間を生き、同じ空気を吸い、同じ世界を生活者としてともにしていくことが実はとても大変。

そのあたりを今年は社会に訴えていけたらと思っているのです。