「餅つき」という風景が育てているもの

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園庭に立ちのぼる湯気。大きな釜の下で揺れる火。
杵を握る子どもたちの、少し緊張した表情と、力を合わせるときの笑顔。

保育園の餅つきは、単なる「季節の行事」として片づけてしまうには、あまりにも多くの意味を含んでいる。

子どもたちだけでなく、大人にとっても、もち米がどのくらいの時間で蒸され、どのくらいの状態だと餅つきが始められる状態で、さらに白くて固かった粒が、だんだんと一つにつながり、伸びる餅になっていく・・・変化していく過程を、目で見て、音で聞き、杵を通した手応えで感じる。これは絵本や動画では得られない、本物の経験です。

また、、この景色は防災の訓練にも重なっています。
薪で火を起こし、大鍋で湯を沸かし、限られた道具で食をつくる。
災害時、電気やガスが止まったときに必要になるのは、まさにこうした知恵と段取りです。餅つきは、非常時の炊き出しを、日常の延長として体験できる貴重な場でもあります。

そして忘れてはならないのが、保護者や地域の人たちの存在です。
釜の火加減を見る人、蒸し器を整える人、子どもに声をかける人、出来上がった餅を食べられる状態に調理する人・・・・役割は自然に生まれ、誰かが指示を出さなくても、場は動いていきます。ここには「お願いされたから参加する」のではなく、「気づいた人が動く」という関係性が育っています。

餅をつく、丸める、配る、食べる。その一連の流れの中で、子どもは大人の背中を見ています。力を合わせること、待つこと、譲ること、失敗しても笑い合うこと。
何気ない日常の協力のかたちを、子どもたちは静かに受け取っているのだと思います。

餅つきという風景は、「楽しい行事」であると同時に、「生きるための知恵」を思い出す場であり、「人と人がつながり直す時間」でもあります。

湯気の向こうで交わされる何気ない会話や、火を囲んで生まれる安心感。
そうした空気そのものが、子どもたちにとっての原風景になってもらいたい・・・保育園で行う餅つきは、行事を超えて、暮らしを伝え、関係を編み直し、非常時にもつながる日常を、育てているのだと自負しています()

また、今日はわざわざ名古屋からいろいろ交流させてもらっているアイン保育園グループの新旧ゼネラルマネージャーが遊びに来てくれた。餅つきという風景を客観的に見てもらい言葉化してもらうと当たり前と思っていた行為にも意味性を感じられるようになるから不思議だ。「餅つき」というコトも実は久良岐ら「縁と恩と義理人情」のマネジメントの一部なのかもしれない。