「生類の思想」と命をいただく遊びの縁

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藤原辰史さんの『生類の思想』読了。真っ先に浮かんだのは「遊び」という営みの本質だった。僕が大切にしている「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉は、単なる快楽の追求ではない。それは、自分以外の命や、ままならない自然の理(ことわり)の中に自らの身体を投げ出す行為だ 。今の社会はあまりに効率的で清潔すぎる。しかし、命の本質はもっと泥臭く、不自由で、予測不能なものだ。

 例えば海で釣りなどしていると、時折、言葉にできないほど鮮やかな命の律動に触れることがある。釣り上げた魚が手のひらで跳ねる、あの力強い鼓動。干潟のカニたちが繰り広げる滑稽で必死な求愛ダンス 。そんな光景を眺めていると、人間もまた、この広大な命の連なり——藤原辰史さんが言うところの「生類(しょうるい)」の一部に過ぎないのだと、深く再確認させられる。

 僕にとって「自然体験」とは、綺麗な景色を眺めることだけではない。野草を摘んで食べ、釣った魚を自ら捌いて「命をいただく」プロセスまでを丸ごと楽しむ、徹底した「キャッチ&イート」の精神がその根底にある 。藤原さんは人間中心主義を脱し、生きとし生けるものが絡み合う「縁(えん)」を説くが、これは僕が大切にする「食を通じた命のやり取り」そのものなのかなぁと。

 泥まみれになって虫を追い、獲物を捕らえ、それを血肉に変える。この「痛み」や「手触り」を伴うプロセスこそが、「生類の思想」を身体化する瞬間ではないだろうか 。そこには「食う・食われる」という、残酷だが神聖な命の循環がある 。子どもたちが自分の手で命に触れ、その重みを感じながら「美味しい」と笑う時、彼らは理屈を超えて世界との「縁」を結んでいるのだと思う 。

 「遊び」とは、この不確実な世界を信頼し、愛するための真剣な稽古のようなものだ。大人が本気で遊び、命をいただく背中を見せることで、子どもたちは自然と「生類」としての構えを学んでいく 。効率の物差しでは測れない無駄や不自由の中にこそ、人間が生命らしく輝く時間が流れている。だから僕は子どもたちを海や山に連れ出したい。