Facebookで横浜市の関口さんの長文に出会ってしまった。そこには絵本「スーホーの白い馬」とレヴィ=ストロースのブリコラージュのことが書かれていた。なんというのだろう。新年度を前にした、僕の胸の奥の小さな緊張感とシンクロして不思議な感情になる。新年度は期待もあるし、不安もある。そして、これまでうまくいかなかった傷跡も疼く。組織にいれば、誰だって矢を受ける。誤解、無理解、嫉妬、同調圧力。正しいと思って動いたことで、後ろから射られることもある。僕などは単純な人間なので「やられたら、やり返したい」と思ってしまうこともしばしば。
『スーホーの白い馬』。矢を受けながらも主人のもとへ帰った白馬。その亡骸を前に、スーホーは復讐を決意する。この本を最初に読んだとき僕は本気で泣いて、本気で怒った。怒りは正義の顔をしてやってくる。ところが、夢に現れた白馬は言うのだ。「王を殺しても、私は生き返らない。それより、私の体で琴をつくってください。」復讐は、痛みを増やす。創造は、痛みを意味に変える。60歳を超えてようやくこのことが判るようになってきた。
正直に言えば、僕らは強くありません。保育の現場は万能ではないし、社会課題は重いし、組織は硬いし、理不尽なことばかり。そして、一人一人は、驚くほど小さい。でも、ここで思い出すのが保育園でも大事にしている「ブリコラージュ」という考え方。ブリコラージュとは、手元にあるものを寄せ集め、対話し、試行錯誤しながら、新しいものを生み出すこと。完璧な素材が揃うのを待たない。権力も資本もなくても始める。

足りないまま動く。子どものつぶやきだったり、職員の得意不得意、保護者の経験、地域の資源などなど。それらは単体では弱いが、けれど寄せ合えば、形が変わる。
「弱い」というのは、見え方の問題かもしれない。一人では声が小さいがでも重なれば合唱になる。一人では細い糸がでも編めば布になるみたいな。完璧な職員はいない。
万能なリーダーもいない。けれど、寄せ合えば園は強くなる。
今年もきっと、弱い保育園や弱い僕に矢は飛んでくるのだろう。でも自分は弓を引くよりも、材料を集める方を選ぼうと思った。弱さを寄せ合い、違いを混ぜ、対話を重ね、音をつくることが保育であり、福祉だと再確認できた気がした。一人では弱い。けれど、寄せ合えば景色は変わるのだと信じて。
