前橋にある認定こども園清心幼稚園でのアップデートフォーラム。昨日は上州名物の空っ風を体感し、今日の視察もハラハラしていたが、穏やかな外遊び日和の中、研修が始まりました。

園に一歩足を踏み入れた瞬間、まず感じたのは「余白」でした。余白といっても、何もないわけではない。むしろ、素材は豊かにある。窓辺には乾いたとうもろこし。光の入るテーブルには、芽吹きかけた人参。絵の具の飛沫が残るアトリエ。色布が風に揺れる制作棚。どんぐりや柑橘の皮が無造作に、しかし丁寧に置かれている。けれど、どこにも「やらされる空気」がない。あるのは、「ここに居ていいよ」という言葉で表せない「許可」という空気感。
園庭では、数人の子が手に絵の具をつけ表現活動。その横では両手を空に伸ばしてくるくると回転している。何かを成し遂げたわけではなく手を伸ばしている。そして、その横で、別の子がその様子を眺めている。それが、いつの間にか立場が入れ替わる。「する人」と「見る人」・・・その境界が自然に移ろっている。「ああ、園庭のど真ん中にエコトーンがある」と思った。

活動の場所は、わかりやすく提示されていて(カチッとしたコーナーではなく)、子どもから見たら、遊びのはじまりは見つけやすい。こういう園は最近は多い。でも清心幼稚園の遊び空間の周辺には必ずグラデーションのような場所がある。
参加してもいい。少し離れてもいい。今は見ていてもいい。その“あいだ”が、実に豊かなのだ。
限られた保育室や園庭という空間の中に余白をつくるのは実は勇気がいる。大人はついつい予定で埋めたくなるし、成果で示したくなし、説明できる形にしたくなる。けれど、清心幼稚園には余白を感じ、その余白が子どもへの権限移譲を可能にしている感じがした。きっと子どもを信じているのだろう。

そしてもうひとつ、強く感じたのは、職員同士の互助性の高さ。「自分のやりたい」が尊重されている空気というか、誰かの実践を、誰かが面白がっている気配や正解を見つけ出そうと無理をしていない雰囲気。だからこそ、空間に無理がない。
保育者が安心しているから、子どもも安心している。居ることそのものが、価値になっている。
アトリエの床に残る絵の具の跡は、消し忘れではない。歴史であるし、吊るされた素材は、装飾ではなく、「まだ何かになる途中」の気配だ。窓越しの庭は、外ではなく、
内と混ざり合う境界のようだ。昨日のブログでも書いたが今回のセミナーの「保育の身近」とは距離ではなく、継続する関係と参加の構造なのだ。

完成された空間は、美しい。でも、完成された空間は、少し息苦しい。清心幼稚園は、きっと完成していないのだろう。常に途中、常に変化の中。だからこそ、子どもも、職員も、“なっていく存在”でいられるのかなぁと思った。そう考えると園というのは、子どもを育てる場所ではなく、「育ち続けられる関係」を編み続ける場所なのだと改めて思う。
本当なら今日の午後も明日もこの空間で遊ぶ子どもたちから何を学ぶのかをみんなで語りたかった。僕は一人、新幹線の中で視察のレポートを書いている。

